演目解説
『乱』
―― 波に遊び、酒に舞う祝福の精霊
能『乱(みだれ)』は、本来『猩々(しょうじょう)』という祝言能の小書(特殊演出)です。通常の『猩々』では「中ノ舞」が舞われますが、「乱」の演出が付くと曲名も単に『乱』と変わります。酒に酔った猩々が波間に浮かび遊ぶ様子を、より華やかに、より躍動的に描く演出であり、祝言能の中でも特に人気の高い演目です。
物語の主人公は、中国・揚子の里に住む高風という孝行者です。高風はある夜、「市場で酒を売れば富貴の身となる」という不思議な夢のお告げを受けます。その教えのままに酒を売ると、夢の通り裕福な身となりました。
さらに不思議なことが起こります。高風の店には毎日のように酒を飲みに来る客がいました。その客はどれほど盃を重ねても少しも顔色が変わりません。不審に思った高風が名を尋ねると、その者は海中に住む猩々であると名乗り、「潯陽の江に酒を持参して待っているならば、必ず現れよう」と答えます。
そこで高風は、秋の月が美しく照る夜、潯陽の江のほとりで酒を用意し、猩々を待っています。菊の酒を満たした盃には月影が映り、静かな水辺には秋風が吹いています。やがて波間から猩々が現れ、高風との再会を喜びながら酒を酌み交わします。
芦の葉を渡る風は笛の音となり、寄せる波は鼓の響きとなる――。自然そのものが囃子となる幻想的な世界の中で、猩々は酒の徳を讃えながら舞を舞います。そして高風の素直で清らかな心を褒め、汲めども尽きることのない酒壺を授けます。その酒壺によって高風の家は末永く栄え、物語はめでたく結ばれるのです。
『乱』最大の見どころは、曲名にもなっている「乱」の舞です。通常の能ではあまり見られない特殊な足遣いが数多く用いられ、抜キ足・波足(巻キ足)・流レ足・ケモノ足などによって、猩々が波間に浮かび、漂い、遊ぶ姿が表現されます。酒に酔った精霊が水面を自在に行き来するような舞は、この曲ならではの魅力です。緩急に富んだ囃子と相まって、舞台にはどこか夢幻的な世界が広がります。
また、猩々は赤い専用面「猩々」を掛け、赤頭に赤い装束、赤い半切という全身朱色の姿で登場します。その鮮やかな出立は祝言能にふさわしく、舞台を華やかに彩ります。中国の伝説では猩々は酒を好む瑞獣とされ、人の言葉を解する不思議な存在として語られてきました。
能には怨念や修羅を描く作品も数多くありますが、『乱』はそれらとは対照的に、人の善き心に福が訪れる世界を描いた作品です。月明かりの水辺に響く囃子、波と戯れる猩々の舞、そして尽きることのない酒壺――。祝福と豊かさに満ちた能の世界を味わうことのできる、華やかな祝言能の名曲です。