『殺生石』

―― 妖狐伝説と石に宿る怨念

　能『殺生石（せっしょうせき）』は、平安時代の宮廷を騒がせた絶世の美女・玉藻前（たまものまえ）の伝説をもとにした作品です。物語の舞台は、下野国・那須野の原（現在の栃木県那須町）。この地にある「殺生石」は、近づく生き物を死に至らしめると恐れられてきました。能では、その石に宿る妖狐の怨念と、法力による救済の物語が描かれます。



　冒頭、旅の高僧・玄翁（げんのう）が従者を伴い、奥州から都へ向かう途中で那須野を訪れます。荒涼とした野にそびえる巨石。その上を飛ぶ鳥が次々と落ちて死んでいく光景を目にし、玄翁は怪訝に思います。そこへ現れるのが、ひとりの女（前シテ）。女はこの石こそ殺生石であり、近づけば命を奪われると告げます。さらに彼女は、かつて鳥羽院の寵愛を受けた玉藻前が実は九尾の妖狐であり、陰陽師・安倍泰成（あべのやすなり）に正体を見破られ、討たれてこの石と化したのだと語り、自らがその石魂であると明かして姿を消します。



　後半、玄翁は石に向かい仏法を唱え、悪しき魂を救済しようと祈祷します。すると石が二つに割れ、九尾の狐（後シテ）が姿を現します。妖狐は、自らが天竺・唐・日本の三国を渡り歩き、帝をも惑わせた過去を語ります。やがて追討の武士・三浦介、上総介に射止められたことを再現し、怨念を語り尽くします。しかし玄翁の法力を受けた妖狐は、ついに心を翻し、今後は殺生をしないと誓って再び石と化し、舞台を去るのです。



　『殺生石』の見どころは、前半の静かで不気味な情景と、後半の劇的な展開の対比にあります。特に、石が割れて妖狐が現れる場面は能の演目の中でも屈指の迫力ある演出であり、役者の俊敏な動きが緊張感を高めます。さらに、狐の化身である玉藻前という伝説的存在を通じて、悪しきものすら仏法に導かれるという救済思想が鮮やかに描かれています。荒涼とした那須の風景と、妖艶な女の姿、そして法の光に救われる狐の物語。『殺生石』は、能がもつ幻想性と祈りの力を一体化させた名曲です。