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演目解説

​『当麻』

―― 仏の慈悲と祈りの舞



 能『当麻(たえま)』は、中将姫の伝説をもとにした作品です。物語の舞台は奈良の古刹・当麻寺(たいまでら)。一遍上人がこの寺を訪れたという故事をに基づき、当時の信仰のあり方が、能という形式を通じて描かれます。



 冒頭では、当麻寺に参詣する旅僧の一行が登場し、寺の縁起や中将姫にまつわる伝承を耳にします。中将姫は藤原家の高貴な家柄に生まれ、幼い頃から仏道に深く帰依したとされる人物です。祈願の末に生まれ、幼いながらも念仏や写経に励んだと伝わっています。

 しかし、その生涯は穏やかではありませんでした。母の死後、継母に強く憎まれ、ついには雲雀山に捨てられてしまいます。ただ、命までは奪われることなく、配下の武士により密かに育てられます。その後、偶然の再会を経て実父のもとに戻るものの、継母との確執や実母の供養への思いから、姫は出家を決意します。

 当時の当麻寺は女人禁制でしたが、中将姫の信仰の深さに打たれた住職が特別にこれを許し、姫は剃髪して仏門に入ります。現在も剃髪堂が寺に残されており、剃髪に用いた剃刀も宝物として伝えられています。



 能の中で語られるのは、姫がどのようにして「当麻曼荼羅」を織り上げたか、という奇跡の物語です。姫の前に現れる老尼(実は阿弥陀仏の化身)が、「明日の蓮の糸を集めなさい」と告げます。蓮の糸を集め、井戸の水に浸すと糸が染まり、その糸で曼荼羅を織ったという伝承が残されています。



 この曼荼羅は、単なる工芸品ではなく、仏の浄土をこの世に写したものとされます。曼荼羅の完成は、姫の信仰と仏の加護が交わる瞬間であり、能における「祈りの芸能」としての本質が、ここに色濃く表れています。

 後場では、僧たちが夜通し念仏を唱える中、成仏した中将姫の霊が現れます。姫は舞いながら、仏法の徳と浄土の世界を語り、仏の教えを託した巻物を僧へと手渡します。この舞は、観客に美しさを見せるだけのものではなく、場を清め、仏への祈りを体現する行為です。能における「舞」とは、もともと「回ること」を意味し、世界を浄めて祈りを捧げる所作とされています。



 『当麻』は、仏教と能楽の結びつきの深さを感じさせる作品でもあります。当時の人々にとって、念仏による救済を説く「時宗」は大きな存在であり、芸能と信仰が交差する場としての能の性格をよく示しています。

 もともと能は、五穀豊穣や国家安寧など、人々の祈りを源とする芸能でした。『当麻』における中将姫の物語は、そうした能の出発点をあらためて思い起こさせます。信仰とは何か、人はどのように救われるのか――。この曲は、語りすぎることなく、しかし確かな力で、それを観る者に問いかけてきます。

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